大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

神戸地方裁判所 昭和49年(タ)37号 判決

原告

河田政夫(仮名)

右訴訟代理人

関根俊太郎

外三名

被告

神戸地方検察庁

検事正検察官検事

羽山忠弘

主文

一  亡島田マツ(本籍大阪市北区○○町三四番地)は、亡河田一郎(本籍東京都江戸川区〇〇一丁目九八四番地)と亡山田サチ(本籍大阪市東区○○町二丁目七四番地)との間の嫡出子であることを確認する。

二  亡神田スギ(本籍和歌山県日高郡○○村大字〇〇三〇六番地)と亡島田マツ(本籍は主文第一項と同じ)との間に親子関係が存在しないことを確認する。

三  訴訟費用は国庫の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一、請求の趣旨

主文と同旨

二、請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二  当事者の主張

一、請求原因

1  亡島田マツ(以下単にマツという。)は、戸籍上では、本籍和歌山県日高郡○○村三〇六番地八一番戸戸主亡神田スギ(以下単にスギという。)の子として出生届がなされ、大正二年六月一六日、当時の本籍大阪市東区○○町二丁目一番屋敷戸主亡山田正二郎、同人妻亡サチ(以下単に正二郎、サチという。)の養子になつた旨の記載があるが、真実は、スギの子ではなく、サチと当時の本籍大阪区東区○○町二丁目四六番屋敷戸主亡河田一郎(以下単に一郎という。)との間に出生したものである。

すなわち、サチは、明治三年四月一三日神田仙吉、スギの二女として生れ、同二六年六月一五日一郎と婚姻し、同二七年一〇月一六日一郎と離婚し、同二八年五月一六日正二郎と婚姻したが、一郎との婚姻中の同二七年六月頃、マツを懐妊し、一郎と離婚してから一四三日後の同二八年三月八日に出産したものである。マツがスギの子として戸籍に記載されたのは、サチが一郎と離婚していたため、自己の子として届け出ざるを得なかつたので、自己の再婚の可能性を考慮し、また、マツの将来に支障が生ずるかもしれないと案じ、自己の実母であるスギの了承の下にスギの子として出生した旨の虚偽の出生届をした結果、戸籍上マツがスギの子である旨の記載がなされたのである。

2  原告は、一郎とその後妻ちよとの間に生まれた子であり、マツとは、母を異にする姉弟関係にある。マツは、昭和四八年一月七日死亡したが、配偶者島田千治郎は既に死亡しており、また、直系卑属は無く、かつ、直系尊属は全員死亡しているので、原告は弟としてマツの相続人となりうるところ、戸籍にサチの子としての記載がないので、マツの法定兄姉の代襲相続人らと遺産分割について協議が調わない。

また、国税庁の相続税課税の取扱上調停による遺産分割の場合、戸籍上相続人でない者については贈与税が課せられることとされており、不利益が甚しい。

3  原告は、スギとマツとの間に親子関係が存在しないにもかかわらず戸籍上親子関係があるような虚偽の届出がなされ、かつ、マツと一郎、サチとの間に親子関係が存するにもかかわらず戸籍上親子関係が存しない為前記ような不利益を受けているので戸籍を訂正するためマツが一郎とサチとの間の嫡出子であること、及び、スギとマツとの間に親子関係が存在しないことの確認を求める。

二、答弁

マツが、戸籍上和歌山県日高郡○○村三〇六番地八一番戸戸主スギの子として出生届がなされたこと、大正二年六月一六日、当時の本籍大阪市東区○○町二丁目一番屋敷戸主正二郎、妻サチの養子となつた旨の記載のあること、サチが、明治三年四月一三日神田仙吉、スギの二女として生れ、同二六年六月一五日一郎と婚姻し、同二七年一〇月一六日一郎と離婚し、同二八年五月一六日正二郎と婚姻したこと、マツが同二八年三月八日出生したとの届出があること、原告が、一郎とその後妻ちよとの間に生れた子であること、マツが、昭和四八年一月七日死亡したことは何れも認めるが、その余の事実は知らない。

第三  証拠〈略〉

理由

一確認の訴の利益について

親子関係の主体の双方が死亡した場合、その親子関係は過去の法律関係になるが、過去の法律関係であれば、当然に確認の訴の対象として適格を欠くことを意味するものではない。過去の法律関係であつても、それによつて生じた法律効果につき現在法律上の紛争が存在し、その解決のために右の法律関係の存否につき確認を求めることが必要、かつ、適切と認められる場合、とくに戸籍法一一六条に基づいて確定判決によつて戸籍の訂正が必要な場合には、確認の訴の利益が認められ、この場合、人事訴訟手続法三二条二項、二条三項を類推適用して、法律上の利害関係を有する第三者たる親族は、検察官を被告として死亡者間の親子関係存否の確認の訴を提起することができると解するのが相当である。

これを本件についてみるに、〈証拠〉を総合すれば、マツは、戸籍上では当時の本籍和歌山県日高郡○○村三〇六番地八一番戸戸主スギの子として、明治二八年三月八日出生した旨記載されており、サチと一郎との間の嫡出子として戸籍に記載されていないこと、原告は、一郎とその後妻ちよとの間に生まれた子であることがそれぞれ認められる。

してみると、原告は、マツがサチと一郎との間の嫡出子であること、スギとマツとの間に親子関係が存在しないことを主張するにつき法律上の利害関係を有する親族に該当するものというべきであるから、本訴をいずれも適法なものとして許すべきである。

二マツとサチ、一郎及びマツとスギとの親子関係の存否について

〈証拠〉を総合すれば、次の事実を認めることができる。

マツは、出生当初からサチのもとで養育され、明治二八年五月一六日、サチが正二郎と婚姻し大正二年六月一六日マツを養女にする間も、マツを養育していた。マツが島田千治郎の妻となつた後も、サチはマツの家に泊まつたり、同居したりしていた。マツは、自己の母、祖母、兄の死亡年令をそれぞれ八〇才、七八才、七七才と原告宛の手紙に記載しているが、母をサチ、祖母をスギ、兄を山田万之介として関係をとつてみると、サチは、明治三年四月一三日出生し、昭和二四年一二月九日死亡しており数え年八〇才、スギは、天保一〇年二月一一日出生し、大正五年一月一八日死亡しており数え年七八才、山田万之介は、明治二二年一〇月二七日出生し、昭和四〇年一二月二二日死亡しており数え年七七才となり、数え年による死亡年令が一致する。マツの母がサチであることについては親族間に於いて疑いをいれていなかつたし、浜タケ、加藤芳雄ともマツの母がサチであるとマツから聞いたことがあり、右加藤はサチからも同様のことを聞いたことがある。マツは、原告あての書簡中に主治医に対し、原告を「舎弟」と指称している。マツは自己の財産の一部を自己の姓である「島田」姓ではなく、「河田」姓を用いて銀行に預託している。一郎の父勘太郎は、士族であるが、マツは、浜タケに対して自己の父方は四国宇和島藩の士族であると述べていた。原告は、幼少の頃、一郎に連れられてサチの家に行き、一郎からマツを原告の姉であると聞かされ、その後も、マツと原告は、手紙のやりとりや面会したりしていた。サチは明治二六年六月一五日、一郎と婚姻し、同二七年一〇月一六日一郎と離婚したが、マツは、同二八年三月八日出生しているので、サチは、一郎と婚姻中にマツを懐妊し、離婚後一四三日してマツを出産したと認めても矛盾するものではない。もしも、スギが、戸籍の記載のとおりマツを生んだとすると、スギの出生は天保一〇年二月一一日であるから、満五六才でマツを生んだことになり、生理的に困難である。

マツが、戸籍上サチと一郎との子として届出されず、スギの子として届出されたのは、一郎の父がサチを家風に合わぬ嫁として嫌い、止むを得ず一郎とサチが離婚したといういきさつがあつたので、離婚後一四三日して出生したマツをサチの子として届出すると一郎の子と推定されるため、一郎はマツを自己の子と推定されるような届出を好まなかつたし、サチにとつてもマツの父を一郎と推定されるような届出を避けたかつたという動機が重つて、サチは、スギに依頼してその子として出生の届出をしたと考えられる事情があつた。

ほかに右認定を覆すに足る証拠はない。

以上認定した事実によるとき、マツは、サチと一郎との間の嫡出子であり、マツとスギとの間には親子関係は存在しないと認めるべきである。

三結論

よつて、マツが、サチと一郎との間の嫡出子であること、マツとスギとの間に親子関係が存在しないことの確認を求める原告の本訴請求は、いずれも正当であるからこれを認容し、訴訟費用の負担につき、民事訴訟法八九条、人事訴訟手続法一七条を適用して主文のとおり判決する。

(下郡山信夫)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例